ミニマリストへの誤解を恐れない
佐々木典士

批評家の蓮實重彦さんの言葉を紹介したい。

 

――流通するのは、いつも要約のほうなんです。書物そのものは絶対に流通しない。ダーヴィンにしろマルクスにしろ、要約で流通しているにすぎません。要約というのは、共同体が容認する物語への翻訳ですよね。つまり、イメージのある差異に置き換えることです。これを僕は凡庸化というのだけれど、そこで、批評の可能性が消えてしまう。主義者が生まれるのは、そのためでしょう。

 

 

 ぼく自身もダーウィンなら「自然淘汰の人ね!」とか、本人の人となりなんかで知識は終わっていて、それでも何かわかった気になってしまっていて「種の起源」自体は読んでいない。マルクスも同様。

 

ミニマリストの要約とは

 

 これはミニマリストについても同じ。ミニマリストを要約すると「モノが少ない人」になると思う。

 

 

 ミニマリストが奈良時代にタイムスリップしたという設定の漫画「あをによし、それもよし」はおもしろいが、紹介文には「贅沢をこじらせてしまった、ちょいウザ現代人」と書いてあって、なるほどこういうイメージで捉えられているんだと、その的確な表現含めてちょっと感心してしまった。

 

 ミニマリストの本は今ではたくさんあって売れているものも多いが、たとえばテレビでそれを知った人の数と比べればたかが知れている。

 

広く知られる条件

 

 広く知られるということは、要約されて、わかりやすいイメージになっているということ。

逆に言えば要約しやすいようにわかりやすくなっていなければ、そもそも広く知られることもないと思う。

 

 そうして広く知られるようになったときは、もともとの意味の広がりからは狭いものになっている。「ぼくモノ」にはミニマリストとは「モノが少ない人のことである」と書いたつもりはないが、蓮實さんの言葉にならえば本自体が流通することはないのだから、そのメッセージが伝わらないのは仕方がないと思う。思えば、本自体を読んだって伝わらないことはたくさんある。

 

 人前に出るのがまったく好きではなかったのに、メディアに出続けたのは自分が救われたものを知ってくれるきっかけが少しでも増えれば、という一心からだった。入り口さえあれば、本質を理解してくれる人もいるはずだと。今思えば「要約されて流通する」ことはそこまで考えておらず無邪気だったかもしれない。

 

誤解されることを前提に

 

 しかし、もはや要約されること誤解されることは前提として、これからの事は進めたいと思う。今することと言えば、「それはミニマリストじゃない!」「お前のミニマリズムはミニマリズムじゃない!」と声を荒げることではなく、自分の声が届く範囲で淡々と伝えていくということだ。

 

 

ヨガの第一人者、ケン・ハラクマさんの本を読んでいると、

「ヨガはストレッチなんですか?」と聞かれると「ヨガはストレッチなんですよ」と答え、

「ヨガはストレッチだけじゃないんですか?」と聞かれたときは「ヨガはストレッチだけじゃないんですよ」と答える。ということが書いてあった。

 

これぐらい、たおやかでありたいと思う。

 

誤解しながら生きている

 

 人は「わかりたい」生き物なのだから、要約して簡単になったものを知ることで「わかった」と思いたい。

人生は短くて、たくさんのものを要約せずにそのまま理解はできない。しかし、自分が何かを「わかった」と思うときは、要約したものを受け取っているということも忘れずにいたい。もっといえば、理解するということは誤解することでもある。

 

ミニマリストは要約されて、誤解されて広まっているかもしれない。

しかしぼくだっていろんなものを要約して、誤解しながら理解しているのだ。

 


ケン・ハラクマ「ヨガから始まる―心と体をひとつにする方法」
考え方もそうですが、食生活や人付き合いなどがなぜか印象に残っています。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。