好き嫌いは、論理に先行する
佐々木典士

人が驚くとき、まず最初の0.1秒でびっくりし、次の0.9秒でその意味を知るといいます。

散歩しているときに、近所の犬にいきなり吠えられたとしましょう。

そのとき「何かに吠えられた」と理解してから驚くのではなく、まずビクッと驚いてから「なんだ、犬に吠えられたのか」と理解するということです。

人の好き嫌いを判断する「扁桃体」も同じで理性よりも素早い反応です。

まず好きか嫌いが決まってから、その理由が後づけされます。

 

毛虫について研究した上で、「私は嫌いみたいです」と結論を下すわけではありません。まず毛虫にゾクっとしてから、「ウネウネしてて気持ち悪い」とか「毛だらけで嫌」などと思うのが普通です。

 

恋人からの「私のどこが好き~♪」という質問はかわいいものですが、答えはいつでも事実とは少しずれていきます。人は理由なく恋に落ちてから、その理由づけをするものだからです。

 

まず最初に感情が発生します。そして何かに大して最初に「けなしてやろう」という思いさえあれば、必ずほころびは見つけられます。完全無欠の人間も、完璧に隙がない論理というのもこの世にはないからです。

 

たとえばミニマリストの姿を見て「嫌い」だと思ったとしましょう。モノをたくさん集めていて、しかも片付けられない人は、ミニマリストの姿を見るだけで自分が「攻撃されている」と思うことがあります。そうしてこんなプロセスが生まれます。

【1】まず扁桃体で嫌いだと判断し、けなしたいという思いが生まれる

【2】その後に、前頭葉で論理が考え出される

【3】その人の知的なレベルや時間的な制約でたどり着ける「論理の底」に行き着くと、論理は打ち切られる

 

研究者でもない限り、いつまでも同じ問題を考えていては日常に支障を来します。しかし、嫌いだと思っているだけでもモヤモヤするので、どこかで自分なりの答えを見つけ考えることを打ち切らなければいけません。それが「論理の底」です。

 

ミニマリストを批判したくなったときにたどり着く、よくある「論理の底」にはこんなものがあります。

「結局、貧乏人の自己肯定だな」

「ミニマリストばかりになったら、日本経済が滅びるよね」

「文章はミニマルじゃないんだ(笑)」

「アップル信者www ジョブズの家は散らかってますけどwwww」

「スマホやデータに依存してる」

「新しい金儲けの道具だな」

「意識高い系だな」

 

 

「結局○○ってことだな」

○○には、承認欲求、宗教、アップル信者、お金など誰でも想像しやすく手垢のついた動機の推測が入りやすいです。簡単かつ何かが言えた気になるからです。

 

文章や自我はミニマルじゃないとか、ジョブズの家は散らかってるとか、何かの矛盾を見つけ出すことでも安心できるので、それも「論理の底」になります。

 

ここにあげた例はよくあるものなので、そのひとつひとつは、もしかしたら論破することができるのかもしれません。

しかし、論破で人の意見が変わることはあまりありません。まず論破しようと思い、そこから論理を作り出す。それでは相手と同じ武器を手にしていることになります。

 

 

漫画でライバルを打ち負かすと良い奴になるのはフィクションには「主人公」という設定があるからです。

 

 

議論自体に意味がないと言いたいのではありません。しかし、ぼくはデール・カーネギーの「議論に勝者はいない」という言葉をよく思い出します。議論に負けたのなら、負けたのだし、相手を打ち負かしたとしても、相手の感情を害してしまったのなら、いい影響を与えることはできずやはり負けたのです。

 

だから、建設的な議論を積み重ねていくためには、議論する相手を好きか嫌いかと、議論の内容自体を分けて考えなければいけません。これは書くのは簡単ですが、容易ではないですし、完全にできるようにはならないでしょう。ぼくもいきなり噛みつかれたら冷静でいられません。

 

今年亡くなられた西部邁さんは、かつて宮台真司さんとの議論した番組で、途中退席しました。しかし、楽屋で最後まで待たれており、宮台さんを励ましさえしたそうです。

 

 

ぼくは今まで数々の批判を受けてきましたが、基本的に反論をしないのは、こういうことができる人が少ないからです。好き嫌いが強く先行していると推測されるときは特にそうします。しかし、これには単にかける労力や失う感情のコストを避けるという意味もあるでしょう。

 

ぼくが本が好きなのは、内容の主張は激しくても本自体はひっそりと書店に佇んでいるからです。本は決して声を荒げず、誰かに手にとってもらうことを静かに待っています。ぼくは今後も、本を通してメッセージを伝えたいと思います。

 

有効な手立てがあるとしたら、何か反射的に言い返したくなったとき、一呼吸でも一晩でも置くことかもしれません。西部邁さんがしたことも恐らくそういうことなのでしょう。ひとつ言えるのは、建設的な議論をするためには、トレーニングが必要だということです。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。