感謝は「手段」じゃない
佐々木典士

人は誰でも、時限装置つきの強力な毒を飲まされている。 油断すると装置はたびたび作動し、次第に人は病に侵される。 それは難病で、侵されると人は幸せから遠ざかってしまう。

 

毒の名は「慣れ」 病の名は「あたりまえ」

 

人生で経験した、最上の喜びすら、喜び続けることはできない。 だんだんと慣れて、次第に「あたりまえ」になってしまう。 そのスピードが驚異的であることを心理学者たちは度々示している。

 

テニスでゴールデンスラムを達成したアンドレ・アガシの 印象的なインタビューがある。 1992年にウインブルドンで優勝したあと アガシは次のように語ったという。 「(ウィンブルドンで)優勝した私は、ごくわずかな人しか知り得ないことを知りました。勝利の喜びは敗北の苦しみにはかなわない。そして、幸せな気持ちは悲しい気持ちほど長くは続かない。似ているとさえ言えません。」(アンドレ・アガシの自伝より)

 

またハーバード大学でその講座がもっとも人気があったという心理学者、 タル・ベン・シャハーのエピソードもこれに似ている。 彼は16歳でスカッシュのイスラエル・チャンピオンになった。 チャンピオンを目指し、毎日6時間にもおよぶ5年間のハードワークがついに報われたのだ。 しかし、優勝の祝賀会のあと、帰宅した彼は自室で、 長年の夢が叶った幸せがすでに消え去っていることに気づいた。

 

一握りの人間しか得られない、価値ある喜びですら あっという間に消え去ってしまう。 自分の中に途端にしまい込まれて「あたりまえ」の経験となる。 目的をいつか達成できたら、幸せに「なれる」と思い人は努力する。 幸せの「条件」さえ達成できれば、幸せに「なれる」と信じて。

 

いい大学に入れたら、 高収入の憧れの職業に就けたら、 理想の恋人と結婚できたら、 子供に恵まれ、家庭を築けたら。 世界ナンバーワンのスポーツ選手になれたら、 ハリウッドのセレブリティーになれたら、 誰もが振り向くような美女になれたら、 総理大臣になれたら、大統領になれたら。

 

宝くじにあたったら、幸せに「なれる」と思い、淡い期待を抱き続ける。 宝くじに当たったお金で 太陽が降りそそぐ土地の、豪邸に住めたら。 つまらない仕事を辞めて、何の不安もなく生きていけたら。 プールサイドでカクテルを飲みながら永遠にのんびりできたら。 自分がずっと行きたかった場所を巡り、世界中を旅してまわれたら。

 

しかし、目的を達成し、ようやくたどり着いたかに見える 幸せは「慣れ」、「あたりまえ」の格好の餌食になってしまう。 目的を達成しただけでは、幸せにはなれない。 幸せは到達できる頂点のような形はしていない。 幸せは「なれる」ものではない。 「慣れ」という毒、「あたりまえ」という病から 「幸せ」を救い、感じ、積み重ねていく方法はあるのだろうか?

 

唯一の解毒剤は「感謝」だと思っている。 ぼくは何もかもを取っておきたくて、全然捨てられないタイプだった。 そして部屋にモノをたくさん溜めこんでいたとき、ぼくは不満の塊だった。

 

少しくらい自分のモノを置いたぐらいで、いっぱいになってしまう部屋。 邪魔なモノのせいで掃除も滞りがち、部屋はみごとに汚れていた。 モノを集めるとモノがもっと欲しくなる。 モノの不足ばかりを見てしまうようになる。 溜め込んだモノに対しても、ぞんざいな扱いしかしない。 買いたいモノも買えず、置きたいモノも置けない、狭い部屋が「嫌い」だった。 部屋をまめに掃除できない、ダメな自分も「嫌い」だった。 広い部屋と比べて、みじめな気持ちにもなった。

 

いつか収納のたっぷりある、広い部屋に住めさえしたら。 そうしたら、置きたいだけのモノをちゃんと整理して置こう。 掃除もこまめにし、自慢のコレクションを飾ろう。 広い部屋に住めさえしたら、ぼくは幸せになれるのに。

 

理想の広い部屋に引っ越したとする。 次にすることは1つだ。スペースに余裕ができたから、さらにモノを貯めこむ。 広い部屋に「慣れ」、「あたりまえ」になり、 「飽き」、「足りなく」なり、「嫌い」になる。 そしてさらに「もっと」広い部屋を探す。 「もっと」は「慣れ」や「あたりまえ」の末期症状だ。

 

モノを捨て、ミニマルを心がけるようになってから ぼくは自然に「感謝」する機会が増えたように思う。 モノを少なくすれば少なくするほど、ひとつずつのモノに対して意識が向かう。 あれもない、これも足りない、何もないと思っていた部屋には、 ベッドがあり、机があり、テレビがあり、エアコンすらもあった。 ぐっすり眠れて、シャワーが浴びれて、食事が作れて、趣味も楽しめる、 安心してくつろげる部屋がある。

 

すっきりとした部屋で、ベッドに寝転んで天井や壁を見つめる。 変な話に聞こえるかもしれないけれど、 いまぼくは、部屋に雨や風を遮ってくれる 屋根や壁があることに感謝をし始めている。

 

感謝は肯定することでもある。 不足を数え上げるのではなく、他人と比べるのでもなく、 「これでいい」、「これで充分」、と「肯定」することだ。 コップの水を「半分もある」と思える人は、 その瞬間、半分の水に感謝をしているのだろう。

 

目的を達成しても、最終的には「もっと」の魔の手が忍び寄る。 「もっと」とささやく声を打ち消すことができるのが、感謝だ。 感謝を忘れれば、残り半分の水を探し求めてしまう。 「なる」のではなく、すでに「ある」幸せ。 その幸せは感謝によってのみ確認できる。 永続的な幸せに「なる」ことはできない。 「いつか」幸せになることもできない。 幸せは毎日「積み重ねる」しかないもの。

 

幸せは「今この瞬間」に、「感じる」しかないものだと思う。 だから「感謝」こそ幸せになるための秘訣だ。 「感謝」を忘れず習慣にしよう。

 

そう実感しはじめていた矢先のこと…… 『神さまとのおしゃべり』という本を読んで驚いた。

「感謝している時こそが幸せである」

深くうなずく。 美味しい料理を食べたとき、 素敵な旅を楽しんでいるとき、 リラックスして温泉につかっているとき。 「幸せー―!!」と思わず口にしてしまうような、わかりやすい幸せな シチュエーションで、ぼくたちは無意識のうちに感謝をしている。 「感謝している時間こそが幸せである」という言葉は、 感謝をしてみると、すぐさま実感できる。

 

感謝は幸せを成している。 感謝は「幸せ」の秘訣ではなく、道具でも、手段でもない。 どうやら「幸せ」そのものであるらしい。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。