なぜミニマリストがマツダの車に惹かれるのか? 後編 「所有」の価値を再発見する 佐々木典士


CX-30 チーフデザイナー柳澤亮氏
やなぎさわ・りょう 1969年生まれ。91年にマツダ入社。05年に二代目BT-50(ピックアップトラック)のチーフデザイナーとなり、07年からオーストラリアに駐在した。11年に4代目デミオのチーフデザイナー、16年からCX-30のチーフデザイナーに就任した。

ミニマリストには車はいらない?

ミニマリストとして発信するならば「車はいらないです」というのがわかりやすい。今は車のシェアサービスもあるし、anycaなどの個人間のレンタルサービスも喜んで利用していた。

日本人として始めて「ミニマリスト」をテーマに本を出版し、そのポテンシャルを伝えるために奔走してきた身としては、車という大きな物を所有することに迷いがなかったわけではない。環境にも興味があったから、最初に買った車は電気自動車だった。そして18年もの間ペーパードライバーだったのに間もなく車に夢中になった。そして自分が望むものすべてが詰まっているマツダのロードスターという車に出会う。

ロードスターは「運転の楽しさ」のために他の要素を割り切っている。2人乗り、ラゲッジスペースも小さな車を選べたのは、ぼくがミニマリズムを経由したからこそ。何かを得るためには、何かを捨て犠牲にしなければならないことを理解していた。そしてぼくはいつしか、できるだけ長く運転席に座っていたいと思うようになってしまった。

これほど自分が惹かれているものを、アイデンティティの一貫性とか、他人から見たわかりやすさとかのために犠牲にするのも変だ。そもそも自分自身が書いていたではないか。たとえば、物を減らして最後に残ったものが大きなグランドピアノだったとしたら、その人が大事にしたいものは「音楽」なのだと。減らすことで大切なものを見つける。大切なもののために減らす。それがミニマリズムのひとつの要旨だ。

本質があってこそ、減らす

今回CX-30のチーフデザイナー柳澤亮さんにお話を聞き、マツダ車のデザインにおいてもその考えは共通していると感じた。残すべき本質がなければ、減らしても意味がない。それはたとえば、テスラの新しいピックアップトラックが教えてくれる。他の車とはまったく違う方向のデザインを世に問える事自体は、称賛したいと思う。しかし残すべきものがなく、単に削ぎ落とすだけ削ぎ落としたデザインはマツダのデザインが成し遂げようとしていることに比べれば単純に過ぎ、だらしがないとすら思えた。

単に減らすだけでは意味がない。残した後に本質がなければいけない。マツダのデザイナーが考えている「本質」とは何かが気になった。

「我々は根本的には美しいものを作りたいんです。そして昔からいちばん大事にしてきたのが、プロポーションの美しさです。車は4つの車輪がある動体なので、その動体の根源的な美しさはたとえば、四角い冷蔵庫とか、白く垂直的な部屋のインテリアとは違うはずなんです。その車ならではの普遍的なプロポーションの美しさを追求するときに、引き算をしノイズになるものは捨てていきます。しかしそれだけでもまだ充分ではありません。なぜならプロポーションの美しさだけで言えば、50年代、60年代のヨーロッパの車はすでに完璧に美しいプロポーションを達成していたりするからです。そこで我々マツダならではの美しさをもうひとフレーバー加えなければいけない。それを探すことを長年やってきて見つけたのが日本的な美、移ろうことの美しさや光と影のゆらめきなんです」

移ろうもの=自然には飽きない

これもまた、ぼくがミニマリズムを実践して考えてきたことと共通する。たとえばCX-30のデザインモチーフともなっている「移ろい」。ぼくが部屋の中から物をなくしてみると、差し込んでくる太陽の光に目が行くようになった。ブラインドを通して差し込んで来る光が、ただ真っ白なだけだと思っていた壁紙に幾何学的な模様を描く。何の変哲もないフローリングの床が光を反射して、はっとさせられる。

▲東京に住んでいた頃の部屋

「少ない物ですっきり暮らす」のやまぐちせいこさんはこれを「光のインテリア」と呼んだ。床を壁を飾るべく揃えられた装飾品は、どれだけ好きなものでもいつか飽きてしまう。しかし光が作り出す、刻々と変わり続ける物には飽きることがない。

ミニマリズムを経て、自然に親しむ機会が多くなった。物はどれだけ素敵なものでも、基本的には固定化しているもの。そういう物を所有するよりも、朝日や夕日を眺める方が素晴らしいと思えたからだ。自然の物は色も形も毎回違う。家に置いてある物と違い、確実に出会えるかどうかもわからない。そんな風に考えていた。

ところがロードスターに乗るようになると、自分の車の側面に写り込んだものに時折息を呑む。それは樹木や空など美しいものの映り込みだけではない。どうでもいい駐車場に引かれた白線が複雑な模様を描き、自分の車を今日だけの特別なものにする。

色もそうだ。匠塗りと呼ばれる特別な塗装は、まわりの環境に合わせて色も深みも変化する。雑用を済まし、車を停めた場所に戻るとまるで別の車のような面持ちでそこに佇んでいる。まるで車の感情が浮き沈みしているように見えさえする。

所有しなければ得られない喜び

わたしのウチには、なんにもない。」のゆるりまいさんと対談した時に、ゆるりさんは自分が持っている物を「この角度からもいいねぇ」とか「ここもかわいいよ」といいながらよく写真に撮ると言っていた。当時のぼくはそこまで愛着のある物はなかったのだが、ロードスターには完全に同じことをしてしまっている。その瞬間だけの車の魅力を記録したくなる。

物の管理にとにかく時間を取られたくないと思っていた自分にとっては、洗車なんて手間がかかる面倒なものでもある。それが洗車をしてコーティング剤を塗ると、塗装が輝き自分の車がまた違って見える。そうして、手をかけることによって自分の所有物をさらに好きになりうるということも知った。レンタルやシェアでは生じ得ない、所有することでの発見や喜びが、マツダの車にはある。

▲洗車の後は、自然と写真を撮る。

「インスタントなデザインにはしたくないということを我々はすごく思っています。わかりやすさだけで言えば「日本の美」を表現するなら竹とか障子とか直接的な和の表現もできるし、その方が海外のお客様にとっては受けもいいかもしれない。でもそれはきっと一過性のもので、すぐに飽きられると思うんですね。それと同じで表層的なグラフィックや、キャラクターラインを入れると、ぱっと見てのインパクトはあるかもしれませんが、でもそれに飽きてまた次の新しいものを、ということになりかねない。環境によって発見があり、毎日付き合ううちに味わい深くなる、それが愛着につながるような車を作りたいと思っています。だからむしろ車を買い替えて欲しくないんです」

スモールプレイヤーというメリット

マツダの車は、単にデザインだけがミニマリズムなのではない。
マツダがミニマリズムという言葉を使っているわけではないが、ぼくの考えでは、会社自体がミニマリズムに貫かれ、それを活かした車作りをしていると思う。たとえば、車作りの姿勢だ。ほとんどの人は、車を選ぶときに価格や燃費や、室内空間がどれぐらいかという「数字」で判断できるものを基準に選ぶ。マツダ車の根本的なスローガンでもある「Be a driver.」、つまりは運転してどれぐらい楽しいかということだが、そういうものは数字にはなりづらい。マツダのデザインは攻めているが、デザインもまた数字には置き換わらないものである。説得力のある数字で相手をやり込めるようなプレゼンとは対極にあるような車作り。いったいどうしたらこういう方針が取れるのだろうか?

「うちの会社が他社と違うところに舵を切れているのは、我々は世界シェア2%のスモールプレイヤーであり、方針としてマスは目指さないと言い切っちゃっていることにあると思います。スモールプレイヤーが、トヨタさんやホンダさんと同じ土俵で戦っても敵うはずがないから、同じ土俵では戦わない。そしてマツダを評価してくださる2%のお客様とコミュニケーションをして、お互い信頼を高めあってマツダという会社を作っていきましょうと会社自体が宣言しているんです。その宣言の元で車作りをしているから、デザインだけでなくエンジニアリングもそういうスタンスです。弱点を逆手に取った戦略だと思うんですけど、それによって他社にはないユニークさが生まれていると思います」

スケールメリットではなく、スモールメリットを活かすミニマリズム。そして拡大路線を歩もうとしなければオリジナリティある車作りの姿勢は担保される。しかし車業界で言えばスモールプレイヤーかもしれないが、マツダは売上高3兆5000億という大企業でもある。こういう大きな組織をミニマリズムで貫き、まとめあげるのは並大抵のことではできないと思う。組織が大きくなればなるほど関係各所の軋轢が生じ、メンバーが同じ方向を向くのは難しくなるはずだからだ。

アップルとマツダの共通点

組織のミニマリズムのことを考えていたときに、念頭にあったのはアップルだった。スティーブ・ジョブズもまた、デザインをミニマルにしただけではなく、会社にある物を減らし、会議に参加する人数を減らし、とにかく減らしたミニマリストだった。

マーケティングや市場調査を重視しない、ということもアップルとマツダは共通している。ジョブズは「 多くの場合、人は形にして見せてもらうまで、自分は何が欲しいのかわからないものだ」と言った。お客様に必要な物をお伺いを立てた上で、商品開発をするのではなく、次はこうだという独断的な感を信じること。そうでければ、MacやiPod、iPhoneなどの製品が他社に先んじて、世を変革することはなかっただろう。柳澤さんにも参考にしている車のデザインや、気になるカーデザイナーを聞いてみたが答えはこうだった。

「もう長いことベンチマーク(目標となる他車を研究したり、性能を自社製品と比較すること)というのをやっていないんです。だから、ぼくも他社にとても疎くなっています笑」

こんな風にマツダとアップルには共通している点が多いと思うが、アップルの場合はある意味わかりやすい。ジョブズという壮大なビジョンを持つカリスマがいて、そのカリスマが要求する無茶苦茶な目標をとにかく他の皆が四苦八苦して成し遂げるという形だったからだ。(例えば、ある時ジョブズは電話帳を机に叩きつけた。そして開発者に「それがマッキントッシュの大きさだ。これ以上、大きくすることは許さない」と言ったという。ジョブズは「多くの企業は優れた人材を抱えている。でも最終的にはそれを束ねる重力のようなものが必要になる」とも言っている)

受け継がれるモノづくりのスピリット

マツダにはジョブズのような絶対的な「重力」があるようには思えない。しかし、結果として同じような高みに到達しているとぼくは思う。各セクションのメンバーが「変態」(マツダ社内では褒め言葉だ)的な熱量を持って、車作りに取り組む。課題解決のために各セクションが譲歩し合うのではなく新たなアイデアを見つけることによって乗り越える。そういうモノ作りがどうしてできるのか前から不思議だった。

「不思議だとぼくも思うんですけど笑。ある意味、広島だからということも大きいかもしれないと思いますね。首都圏は当然いろんな会社があって、そこで切磋琢磨されるというのはいい面、悪い面あると思うんですよ。でも西日本で自動車メーカーというと、大阪にダイハツさんがあって、それより西はマツダだけなんです。広島は歴史的にも興味深くて、広島市ってデルタ地帯、三角州の街なんですよ。中世の時代からたたら製鉄が盛んで、そのために山を掘って土砂が太田川という川を流れてきたものが今の広島市の地盤になったんです。だから元々は海だった。その製鉄業からモノづくりが生まれ、呉海軍工廠(戦艦大和を建造した)ができたり、造船が盛んになったのもそこに鉄があったから。その造船の人たちをヘッドハンティングして車作りを始めたのがマツダです。だから広島という独特な土地で、脈々と受け継がれてきたモノ作り精神がすごく色濃く残っているんですよね。モノを作るということに対して、とにかく異常とも言えるスピリットを持っています」

広島という土地で受け継がれてきたものだけでなく、マツダという社内でもDNAのように受け継がれていくスピリットがある。今の魂動デザインが生まれて10年ほどになるが、それも何もないところから突然生まれたものではないという。たとえば先に挙げた、光の映り込みや移ろいというテーマも、何も最近始まったものではないようだ。

「バブルの少し前ぐらいなんですけど、福田(当時のデザイン本部長の福田成徳氏)が中心となって「ときめきのデザイン」をテーマにしていたことがあるんです。車でいえば、NAロードスターとか、FDのRX-7、センティアの時代です。あの時代も今と非常に近くて、シャープなキャラクターラインを使わずに柔らかい面の表情で塊を作っていくということに取り組んでいたんです。それに木漏れ日が写り込んだり、そういう美しさをリフレクションのデザインとして作っていたんですね」

▲初代ロードスター
▲RX-7(FD)
▲センティア

「ぼくが入社したのもその頃ですし、前田(前田育男常務執行役員 デザイン本部長として魂動デザインを提唱した)はすでにバリバリ仕事をしていた。当時の薫陶を受けた世代が今のリーダー世代になっているんですね。マツダの特徴として、クレイモデラーのスキルが非常に高いんですけど、それもときめきのデザインの時代に培われたスキルが、受け継がれてきたということもあります」

ミニマリズムはどこへ行く?

ぼくは、ほぼ手放しとも言えるぐらいにマツダの車が好きだが、懸念がないわけではない。たとえば今のマツダ車に、足していいなと思えるエアロパーツはほとんどない。デザインの完成度が高すぎて、付け足せるものがないのだ。ミニマルな部屋もそうだが、完成度が高くなっていくほど、そこにあるべきものに対して要求が高まるような厳密さがある。完成度が高すぎるデザインは、これからどう変わっていけるのだろうか?

たとえば、ファッションの世界では2017年頃すでにノームコアやミニマルなファッションに対して揺れ戻しの機運が出始める。(ファッションというのはそもそもそういうエネルギーで駆動している業界だが)。そんな風にミニマルなデザインにもまた揺れ戻しがあるものなのか、もしくはポルシェのように、これからのマツダのデザインは長い時間をかけて少しずつしか変わっていかないものになるのか?

「ベンチマークの話もそうなんですが、我々は流行を追うということはまったくしてないんですよね。今は確かに世の中がミニマリズムの方に来ていて、今のマツダの車にも共通するものがあるかもしれませんが、我々はその世の中の流れを意識していたわけではないんです。だから、もし今のミニマリズムが衰退してまた盛りの文化が来たとしてもそのトレンドに乗っかるというとまったくないですね。一方でポルシェのように同じスタイルを続けていくかというとそれもNOだと思っています。根源的なプロポーションの美しさは変わらないものですが、完成はなく美しさを求める旅に終わりはないんですよね。その探求の中で見つけたものを世に出していく中で、表現する手法は変わっていくのかもしれません。未来の話なので100%言えることは何もないのですが、マツダが日本生まれの日本のブランドであるということは非常に意識していますし、日本の美というテーマはこれから大切にしていくと思います。日本の美を表現するデザインと言えばマツダ、そうありたいと思っています」

日本が自信を喪失しているのは、今の世を席捲しているプラットフォームビジネスはGAFAに蹂躙され、得意としていたモノづくりの分野でもある部分は他国に追い抜かれ、誇りを失っているからだと思う。そんな中にあって、マツダという会社は日本が持っているポテンシャルを見つめ直し、それを虚勢や諧謔ではなく地に足の着いた形で世に問うている。深く知るほど、そういういうものが日本にあることに驚くし、嬉しくなる。それがマツダという車とその会社である。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。