リアルどうぶつの森 〜雑用の再導入〜 佐々木典士

宙ぶらりんに

3月初旬に確定申告のためにフィリピンから日本に一時帰国した。フィリピンではコロナウイルスへの対策が早くしかも徹底していた。3月中旬にはフィリピンで国内移動する手段があっという間に絶たれ、何をどうしても日本から戻れなくなってしまった。

なので実家の香川県で宙ぶらりん状態。こんなに長く実家にいるのは高校生以来だし、母と長い時間を過ごすのも久しぶりだ。

▲近所にあり、人がいなさそうなところを見つけて出かける。メディアの中で起こっていることと、目の前の美しすぎる風景のギャップで頭がバグる。

香川県は感染者も少なく基本的にはのんびりとしていると思う。それでもいよいよという感じになってからは、家で過ごす時間が増えた。

基本的にカフェで仕事をするので、それもできなくなった。家で仕事をしようと机を注文したがずっと来ないまま。イベントはキャンセル。手帳は真っ白。やることがない。

そこで家の仕事である。
実家は古い家なので、とても広い。
大きな仏壇があり、和室があり、庭があるような家だ。

甥っ子姪っ子がいることもあって、最近は雛人形をしまい、五月人形を出し、またそれをしまった。庭先では毎日鯉のぼりが上がっている。

▲ものすごく立派で、しまうのにも、出すのにも結構な労力がかかる。ボタンひとつでインテリアを変更できるゲームとは違うところ。

以前からすれば随分カジュアルな形になったと思うが、実家ではそういう昔ながらの行事を続けている。正月には餅をつく。花をもらえば近くの墓に備えに行く。

意味のあることをしたい、が

広い家、庭、季節のイベントに使う物。それらを適切に管理しようと思えば、膨大な労力がかかる。自分が心がけてきたミニマリストの生活とは正反対だ。物に煩わされる時間をできるだけ減らし、大切なことに注力する。

自分にとっての大切なことは、本を書くこと。余裕のある時間を使って、本を読んだりインプットを増やしたり、ちょっと変わった体験をしてそのことをシェアする。それが自分の仕事だと思っていた。

そのせいか意識が高いというかなんというか、ぼくはふとすると、「晩ごはんを食べる20分の時間を使って、毎日TEDを1本見ることにしよう」とか考え始めてしまう人間である。

ぼくの毎日の習慣は、必ず昼寝もあるし、働く時間も全然長くないが、それでも「何か意味のあることをしたい」という気持ちは常にある。

しかし、今はそれができない。時間は売るほどあっても、毎日十何時間も本が読めるわけではない。コロナの情報を深堀りしていくと、暗澹たる気持ちにもなったりする。そして、家の仕事を見つけて始めるようになった。

・草を抜く
・庭を整える

・メダカの水を変える
・野菜を育てる
・窓を拭く
・古くなった床や壁をDIYする

▲メダカ。この状況で生き物を飼うようになった人が多いというがわかる。水換えをしたり手間はかかる。

リアル版の『どうぶつの森』だ。いつもの短い帰省中なら、避けたいような雑用たち。短い帰省なら『ジョジョの奇妙な冒険』でも再読しながらゴロゴロしていたい。でも今は時間がある。季節も良かった、寒くも熱くもなく億劫ではない。

それでも長くはしない。
午前中の数時間だけ。
その代わり毎日やる。

土はストレスの避雷針

草抜きではいろいろなことを考えさせられる。まず、土にさわるということ自体が本当に心を落ち着かせてくれる。思うように出かけられず、鬱々とした気持ちも出てくることもあったが、土にさわっている間は淀むことがない。

裸足で芝生の上を歩くと、自分の中にあるマイナスなものが足を通じ、芝生に拡散していくような感覚があるが、土に触ることも同じ。沈んだ気持ちが土を通して濾されていく。

乗り物に乗っているときと、歩くとき。移動する速度によって見える景色も目につくものも違うが、「草抜きの速度」というのもあると思った。庭に腰を下ろして草を抜いていると、様々な色をした蛙が飛び跳ね、ダンゴムシが練り歩き、ミミズも時折顔を出す。

▲広くはない庭だが、それを自分の世界とする生き物たちの生態系がある。

簡単な力で、根をブツブツっと心地よい音とともに抜かせてくれる雑草もある。「プチプチ」をつぶすように感触を楽しめる。

ところが簡単にはいかない雑草もある、地中深くに根を張り、手で抜くだけでは途中で千切れてしまう。

▲恐ろしい深さで根を張る雑草。手ではきれいに抜けない。人間の手に負えない雑草が自然淘汰で生き残ってきたのかと疑ってしまう。

それではと、草抜きを効率的にするための器具を検索してみたりする。

▲ゲームなら「草取りのかま」にこんなにバリエーションはないはずで、選択肢が多すぎるのが現実の難点という気もする。

手こずっていたが、草を「抜く」ことから発想を変えて、土を深く掘る「収穫」だと思うとまたこれが面白くなった。

草抜きで近代を追体験する

花や野菜、樹や苔など人にとって嬉しいものは残し、邪魔になる雑草は取り除く。小さな自然を征服しようとすると、近代に人間が行ってきたことを追体験しているような気持ちになった。

そもそもどれだけ雑草が生えていようが、自然はそれ自体には隙がない。ただ人間の邪魔になるものを排除しているだけで、その環境で静かに過ごしているダンゴムシやミミズからすれば草抜きも本当に迷惑な行為だろう。

雑草を育てている面白い人から聞いたことがあるが、「雑草」かどうかというのは人間が決めた基準だと言う。抜いた後に足が早い植物は、美味しく食べられたとしても市場に乗せづらい。だから野菜ではなく、雑草というくくりになってしまう。

思わずウイルスのことを考える。ウイルスと聞けばなんだかトゲトゲした厄介者をイメージしてしまうが、「ウイルスは生きている」という本によれば、すでにウイルスは我々の体の仕組みと密接に結びついている。たとえば哺乳動物が胎盤を通じて子どもを育てるのはウイルス由来の仕組みを使っている。それは、長い進化の過程で同種の生物からではなく、感染したウイルスからも遺伝子を受け継ぐことがあるという驚きの仕組みだった。

ウイルスも、他の生物同様、自分たちの数を増やすことを目的にただ生きている。それが今回はたまたま人間と競合してしまう種類のもので、人間にとっては大変な迷惑という感じだ。

人間が食べて美味しい野菜や、見て嬉しい花を守るために今回は雑草が競合した。

「意味」と「目的」から離れる

草抜きの重要な点は、やってもやってもまた生えるということだ。

▲深く耕して取りきったと思っていたのに、2日後にはすでに5cmぐらい葉を伸ばしていたりして我が目を疑う

何日かすると自分が草を抜く前の状態に戻る。だからやってもやっても終わりは一向にやってこない。すると「意味がない」ように思えてきてしまう。終わりがないものは、「意味」とか「目的」とかいう言葉とは縁遠いものだからだ。

そして、その意味のないように思える行為を切り捨てたくなる。

・長い間草抜きをしなくてもいい薬剤を使いたくなる。
・土をコンクリートで固めれば、雑草は生えなくなる。
・そもそも庭なんて手間がかかるものは持たなければいい。

そうすれば面倒な行為はしなくてもいい。その代わり土に触れる機会は少なくなり、合理的だが味気のない生活を過ごすことになるかもしれない。

個人で完結した楽しみ

自分にとっては、かつては面倒だと思っていた雑事が今は楽しみになっている。そしてその楽しみは個人で完結しているのが心地よい。

今はともすれば、いかにSNSで目立ちフォロワーを獲得し、バズらせるかというようなことを考えてしまう時代だ。誰でも「世間に一発かます」チャンスがあるのはいいが、できるだけ多くの他人を巻き込もうとする欲が透けて見えると疲れてしまう。草を抜いてもSNSで誰かに承認されるわけではなく、ただ自分だけに手応えが残る。まだほとんどの人が「ミニマリスト」という言葉を知らなかった時、部屋を整理しながら自分の身に起こった変化にひとり驚いていたときがいちばん思い出深いが、それと同じだ。

人間はやることがないということに耐えられないから、雑用でもこなすことがあるのが嬉しい。「マインクラフト」や「どうぶつの森」といった目的がなく、自分でいろいろと作業することを決めるゲームが人気だが、それは現代の便利な生活の中で無駄だと思われ切り捨てられたさまざまな雑用を、人びとがどこかで求めているのではないかと思う。

先達たちの手によってすでに舗装道路がどこまでいっても伸び、生きる仕組みが大抵完成されてしまっている日本では、開拓したり頭の中にあることを実現するという喜びも薄いと思う。『ぼくたちは習慣で、できている。』にも書いたことだが、分業が進む前は、ひとりの人間がこなす雑用、期待される役割が多く、日常を生きるだけで様々なスキルが得られ、人は自然に成長することができたのだろうと思う。

善悪は組み合わせ

今回そんな風に思えた雑用だが、以前はなぜ面倒だと思っていたのか? 善悪というのは「組み合わせ」の問題だということを以前にもブログで書いた。「時間がある自分」×「雑用」というのは組み合わせが良い。かつての自分、仕事に追われ、ストレスもあった自分ならたまの休みには雑用よりも、ゴロゴロするほうが組み合わせが良い。時間さえあれば、どんなものも楽しめるのだと知った。

新型コロナウイルスで世界中でたくさんの人が亡くなった。会社が倒産したり、仕事が立ち行かなくなった人も多くいる。一方組み合わせが良かったと言える例もある。AmazonやNetflixの株価は最高額になった。家で仕事をするのでウェブカメラや机はよく売れている。今はマスクをしているので、顔を隠すのに都合が良いということで美容整形も増えているそうだ。4月の自殺者は20%も減ったそうだが、もしかしたら救われた命もあるのかもしれない。経済が停滞している間は、環境汚染は改善した。胎盤形成に役立ったウイルスもまた哺乳類との組み合わせが良かったと言えるかもしれない。

まだ新型コロナウイルスが終息したわけではないので、自分との組み合わせの結論を出すのは早いかもしれない。書店が閉じていたり、流通が滞ったりして自分にも打撃はあり、書く本のテーマも大きく影響を受けそうだ。良かったこと、悪かったことは個人の中にもまだら模様のように存在しているのだろう。

しかし、この宙ぶらりんになってしまった時期だからこそ、意味や目的から離れたものを見直すことができた。これは誰かに配慮するあまり、自粛で塗りつぶしてしまうにはもったいない。退屈ながらも穏やかで、母と過ごしたこの長い長い時間は、振り返ってどうやら思い出深いものになりそうなのだ。

  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。