新型コロナウイルスとミニマリスト 佐々木典士

ミニマリストはこの状況に向いていない?

新型コロナウイルスはミニマリストの生活にどう影響するのか?

まずわかりやすいものとして、ミニマリストはこの状況に向いていないという意見があるだろう。国内外で物流が滞ったり、買い占めが起こったとき「街が間取り」「コンビニが自分の冷蔵庫」と言いながらストックをしていなければ困ったかもしれない。

以前から、ミニマリスト生活のなかでも「災害用品だけは例外」と言い続けてきた。地震のために備えている人は多いと思うが、マスクを備蓄していた人は少なかっただろうし、今後はマスクも備蓄リストに追加したという人も多いだろう。ツイッターでも生活にどんな変化が起こったか聞いてみたのだが、備蓄は少し増やしたという人が多かった。

ぼくはこんな風に「最小限」というのは試行錯誤しながら伸び縮むするものだと思っている。それは単に「すごく少ない」という意味ではない。「最小限」が新たな備蓄の分、少し伸びた。今回の影響はそういう風に言うこともできる。

ミニマリストが強い「リスク」

災害用品や食料など最低限備えた上で、ミニマリストはリスクにも強い、とも思う。普段から少ない物で工夫する生活をしているので、物が手に入らなくなったときの心得があると思うからだ。たとえば、今ぼくは洗車用のタオルを使っているが、以前は手ぬぐい1枚だけで生活していた。そちらにもメリットがあることを知っているので、もし手ぬぐい1枚で生活することになっても問題がない。掃除機も電子レンジも便利なものだが、それを使わない心地よさもよく知っている。「これがなくてはダメ」という絶対量が少なく、物に大きく依存していない。

さらに大きなリスクにも強いと思っている。たとえばぼくは、メインの住居であるフィリピンの家に今帰れないが、大した荷物があるわけでもないので大きな問題がない。このまま長期間帰れなかったとしたも、残してきた物は誰かに郵送してもらえる程度だし、あげたっていい。住んでいた家に帰れなくなっても、大して問題がないというのはなかなかのことではないだろうか。

身軽でいれば、物理的にも精神的にも新たな動きを取りやすい。日本でのコロナ禍は今のところ、想定されたような最悪の事態ではない。しかし、もっとひどく長期的に続くようなものだったとしたら、通勤を強要される会社を辞めたり、人が密集する都会から引っ越したいと思う人もたくさん出てきたかもしれない。

そんなときに生活のランニングコストを下げておき、金銭的なものが決断へ影響する度合いを下げておけば思い切った判断が取れる。物が少なければ引っ越しは簡単だから、新しい環境へ移行するハードルが下がる。ぼくで言えば、飛行機さえ飛べばいつでも日本から離れることもできる。

自給自足生活が強い「リスク」

以上のことを踏まえた上でだが、ぼくはミニマリストとはまったく正反対のような生活もとても素敵だし、いつか自分でもやるかもしれないと思っている。

よく夢想するのはこんな生活だ。山の中で自分で建てた小さな平屋。自分ひとりが食べていける小さな田んぼと畑がある。庭では鶏や山羊を飼う。猟期には鉄砲を持って鹿や猪を追う。

家を建てるのにも、農業や狩猟をするにもたくさんの物が必要だ。一方は物が少なく、一方は物が多い生活だがぼくの中ではすでに大きな対立軸とはなっていない。

自給自足に近いような生活は、今回の新型コロナウイルスのような厄災が起こったときにはむちゃくちゃに強いだろう。映画「サバイバルファミリー」はすべての電源やなぜか車までも使えなくなった事態を描く映画だったが、養鶏や養豚をし、風呂を薪で炊くような昔ながらの農家に世話になるシーンがある。そういう暮らしをしていれば物流が途絶え、電気がなかったとしても生活に大きな影響がない。猟師さんの中には、国がどうなろうが生きていけると言っている人もいるがカッコいいと思う。3年前、次に目指すのは「誰かにやってもらうことを最小限にする」ことだと言っていたが、憧れているのはまさにそんな生活だ。

依存を少なくしてみる

いつかはそういう生活をし始めるかもしれないが、その前にやりたい実験がいろいろとあった。物が少ない生活を経て、誰も友達がいないところに住んだらどうなるのだろうと京都に住んでみた。次は日本を離れてみたらどうなるだろうとフィリピンに住んだ。

物だけではなく「友人」や「母国」から離れてみたときに自分がどうなるのかを見てみたかった。必須なもの、依存するものは少ないほど選択肢は増すように思っていたからだ。

他人に任せず、自分でエネルギーを作り、食べ物を作り出すような生活もそれと同じで、依存するものをできるだけ少なくしようとするベクトルだと思う。ぼくにとっては、ミニマリストも自給自足も、ただサッカーという同じゲームをプレイする別チームのようなイメージだ。ただ取っている戦略だけが違う。

だからそれを一人でやってしまう人もいる。最近知った、Rob Greenfieldという人がそうだ。彼は1年間、自分で育てた食べ物と、自然にあるものを採取して暮らしたという。スーパーにも行かず、バーで飲み物すら頼まなかった。その時の彼は、それなりにたくさんの物を持っていたか、少なくともシェアはしていただろうと思う。

そして今、彼は免許証やキャッシュカードまで切り刻み、47個のものだけで暮らしている。彼の中で一貫しているのもまた、物が多い/少ないではなく、行き過ぎた消費主義や、他人任せになってしまっている生活への疑問だと思う。

自分の資質を見極める

災害にウイルス。どんなことが起こるか本当にわからないし、リスクも短期的なもの、長期的なもの様々だ。自給自足のような暮らしは、今回のコロナのように外部が切断されたときには強いが、一方で地震や、水害や放射線の汚染など住んでいる土地自体に問題が起こるリスクには弱いかもしれない。すべてのリスクに強く、万能に対応できる生活などない。できることは、どんなリスクに備えるべきか考えた上で、自分の資質にあった生活を選ぶことだと思う。

ぼくの資質はと言えば
・物が大好き
・趣味は増える一方
・なのに物の管理は苦手
・物が散らかってたり、色が氾濫していると気になってしまう(視覚が過敏)
・物が適切に管理できていないと、自分を責めてしまう

という要素があり、これはどうやら変わりそうにない。万が一の事態を考えることも大事だが、まずはこの生理に合った暮らしをしたい。だからぼくが自給自足のような生活を目指し始めたとしても、いたずらに物は増やさないだろう。

自分の資質に根ざしたものではなく、もし流行やビジネス的なものでミニマリズムの生活をするのであれば、そういう人はいつかその暮らしから離れていってしまうかもしれない。もちろんそういうことがあってもいい。何度か言ってきたことだが、ミニマリズムは出入り自由な学校だと思っているからだ。ずっとそこにいることが大事なわけではなく、そこから卒業する人がいてもいいし、再び門を叩いてもいい学校。

ミニマルアートがそうであるように、ミニマリズムは不変のひとつの極点だ。それは、ぼくや誰かの生活がどう変わろうが変わらない。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。