Less is future

人に見せられないもの。 
沼畑直樹

ミニマリズムに出会ってキャンプを始めたころ、揃えた道具の競い合いのような雰囲気が周辺で起こり、ある人に「そこでまた競ってしまう」と指摘されたことがあった。

それから、どんなことでも「これは競争になっていないか?」と自分に問いかけるようになり、「競争からはおりる」を心がけている。

なので、キャンプの道具は相変わらず貧相で、妻からはよく文句を言われている。

料理道具も同じで、なるべく「いい器」競争にならないようにしている。本当に欲しくなったものと出会ったときだけ買う。あとは全部を素晴らしいお洒落なものに揃えたりしない。

競争から下り、人と比較せず、自分のためだけに物を買って、ひっそりと、あまり人と会わずに暮らしていると、本当に「楽」だ。

だけども、競争の誘いはいつでもやってくる。

素晴らしい家がテレビで紹介されたとき。お洒落雑誌でクラシックな車を所有している人が紹介されたとき。誰かの八ヶ岳の別荘がWeb記事に載っていたとき。

紹介されるほどのものだから当然素敵で、いいなぁと思ってしまう。

キャンプのための土地を買った、海の近くにセカンドハウスを買った…。

メディアには競争をあおるものばかりだ。

「お金の儲け方」「会社を経営して成功する」といったものは当然人気で、若者の目標としては「稼いで、好きなことして、SNSでフォロワーを増やす」が一定数の支持を得る。

それはまったく問題はないし、こだわりのもので自分を武装するのも悪いことではない。ただ、競争は疲れる。

もし一度参加すると、しばらくの間夢中になり、そして疲れ果てるのだ。

競争で見る隣の芝はものすごく青い。

自分で「参加しない」「競争をしない」「誰がなんといおうとかまわない」と割り切って、競争から距離を置けば、誰かをうらやましく思うことはない。

少し前なら、ネットがなくて、雑誌も手に入りにくい田舎では世間と隔絶された暮らしができた。

若い頃に久米島で暮らしていたころは、ネットがないので外の情報は本当に入ってこない。テレビ局は2局(+NHKかもしれない)だけ。時々友人から手紙が来る。流行っている曲もドラマもCMもまったくわからない。

それでも、靴をサンダルに替えて、毎日適当な服で暮らせる開放感は素晴らしかった。朝起きると海を見下ろす丘の上に出て、コーヒーが飲める。北海道では見たことのないような海に色に毎日感心する。時々、鯨が向こうに見える。

そのかわりに、世界と隔絶されているので、流行にはまったくついていけない。若いときには致命的なのかもしれない。お洒落さんにはなれない。

そのかわりに、夜には蛍が集まる谷に行ける。夜に島を一周する道路を走っても、ほとんどすれ違わない。天の川が雲のように見える。ウィンドサーフィンのボードは砂浜に置いたままで誰も盗まない。

そもそも島にお洒落さんなんて一人もいない。今はネットとAmazonのせいで、いるかもしれない。

メディアがある以上、競争のお誘いはやってくる。お洒落戦争、クールな生き方、お金があるかないか。ミニマリストという言葉自体、物が少ない競争を生んでしまったかもしれない。

本を出したときにラジオで言わせてもらった。「こういう人はミニマリストじゃない」ではなく、「あなたもミニマリストですね」にしないと、すぐにこんなものは廃れてしまうと。他のミニマリストのことは知らないので今の現況はわからないが、持ち物の多い少ないという狭い定義にとらわれたり、ミニマル自慢になっていなければいいなと思う。

隣の芝を見なくなった自分としては、今はほとんどローカルかつ個人的な興味で生きていて、他の人には役に立たない情報ばかり持っている。この季節はここから朝陽があがってとか、近所のあの店がどうのこうのとか、ただひたすらローカルだ。

夏休みに心がけたのは、都外に出ないこと。でも川遊びを子どもにさせてあげたい、近くの公園でBBQをさせてあげたいということ。家の前で花火をすること。久々にパスタとうどんを手打ちすること。

流星群を観ること(外には出たけど数分で戻った)。

盆踊りがなかったので、家の中で東京音頭と北海盆踊りを踊ること。夏祭り風にふきもどしと風車を手作りすること。

SNSに載せられるようなことは特になかった。

特に、リビングでひたすら東京音頭を娘と踊る姿は、どちらかというと隠さなくてはいけないようなことだ。でも、人に見せられないことが、駄目なことばかりとは限らない。メディアやSNSに出ない、隠れているものにも、ポジティブで楽しい何かがあったりするのだ。それに、格好がお洒落でないから、あの人は幸せではない。そんなことはあるわけがない。俺のキャンプ道具が貧相だから、俺のキャンプが楽しくない…わけがない。