休暇小屋もしくは週末小屋のリトリート(Retreat)          沼畑直樹

普段の生活から遮断されたところにある別荘もしくは小屋、宿に佇むこと。

それがリトリート(Retreat)だが、この言葉には、「逃避」という意味がある。

ノイジーな日常から逃げ、離れ、リセットする。

これは、普段忙しい街に暮らし、忙しい仕事やお店に囲まれている人にとっての言葉だ。

たとえば森の中に別荘があり、週末はそこで過ごすという人も増えてきた。

その生活が気に入って、移住してしまう人もいる。

 

私は吉祥寺という忙しい街の商店街の中の家から、東京の西部にあるいくつもの巨大な公園に囲まれた小さな住宅街に越してきた。

縦長なエリアは三方を公園で別の公園で囲まれていて、通り道にもなっていないので、普段は本当に静か。

吉祥寺では聞こえなかった鳥のさえずり。複数のカマキリや正体不明の虫、夜には野生動物のテンにも遭遇する。

それでいて妻の職場には自転車で10分ほど(持ってないけど)。仕事の相棒であるHachiiiの家もそれくらいの距離にあり、夜には新宿から車で30分もかからない。

お店やスーパーが近くにないのが妻の不満ではあるけれど、リトリートに来たと思えば、自分としては心地いい。

 

ここは山梨でも長野でも伊豆でもないけれど、部屋の中には家具が少ないせいか、週末小屋のような雰囲気がある。

好きなモノに溢れ、便利なものが部屋中にありという、暖かい我が家という感じではないけれど、常に凜とした空気を保つ。

吉祥寺の家には帰れないけれど、「月曜日には帰ろう」と想像したりする。

それがバカンスの場合は、「一ヶ月はここにいよう」。

 

昔、欧米の作家の家の写真集を持っていた。

どれもそれは休暇小屋のような感じで、湖畔にあったり森にあったり、海辺に佇んだりしていた。

佐々木さんも、随分喧噪から離れた京都の南端でリトリートしている。

休暇をそこで過ごしているのだ。

 

20歳のころに沖縄の離島である久米島に辿りついた私は、人生の早い時期にリトリートをしたともいえる。

毎日、海を見下ろすガーデンに佇んで、詩を書いたり写真を撮ったりしていたのだから、贅沢なものだ。

ときどきその海には鯨が通り、季節や時間で移り変わる海の色にただひたすら感動していた。

北海道の緑色の海の色とは、まったく違った。

 

そのクメジマ・リトリートのあとは、都会に行こうと思った。

島の暮らしに慣れたあとの那覇は、車がいっぱいの大都会だった。

そしてニューヨークに憧れた。

 

賑やかなところに住みたいという欲求は、もしかしたらリトリートの反動だったのかもしれない。

東京では代官山、吉祥寺と賑やかなところにしか住まなかった。

 

そして、今は半リトリート。家族の職場も近い、都心にもほどほど。でも賑やかな場所ではなく、豊かな自然がある。

別荘ではないけれど、ミニマリズムのおかげで休暇小屋のような雰囲気を持っている。

 

10年後にはまた反動が来るかもしれない。陰と陽を行ったり来たり。

今はとりあえず、休暇小屋という言葉が心地いい。

 

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この記事を書いた人

『最小限主義。』、写真集『ジヴェリ』『パールロード』他(Rem York Maash Haas名義)、旅ガイド『スロウリィクロアチア』他

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