「お題をもらう」ということ 佐々木典士

先日、哲学対話というものに始めて参加してみた。ファシリテーターは哲学カフェtetugakuyaの店主、杉原あやのさん。

今回の哲学対話はお題をもらって、少人数で語り合うというもの。お題は「人は変われるか?」。哲学対話というと敷居が高い感じがする。でも哲学者の名前や用語が飛び交ったり、それでマウントし合ったりするわけではなく、みなさん経験したことや地に足についたことを話し合う形。穏やかに進行された。

お題は、幅広い意味に捉えられるものになっているので、そもそもお題を解釈するところから求められている。ぼくが書いた本は2つとも「人が変わる」ことについての本なので、もちろん大本の答えはYes!!

そして
・何を持って人が変わるとするか?(短時間なら誰でも複数の自己を使い分けている。一緒にいる人、話す言語によっても変わり、方言でも変わる。お酒でも変わる)
・どういう時に他人が変わったと思うか?
・では、変わらないものは何か?
・自分を変えられるとしても、人を変えることはできるのか?
・人を変えようとするの野蛮?
・変わらない人をどう認めるか?
などなどいろいろ問いが浮かんできた。

興味深いテーマだったが、今回書きたいのはその内容ではなくこうして「お題をもらう」ことについて。

「人は変われるか?」というお題をもらい、いつものようにアウトライナーに書き込んでいって自分の考えをまとめる。対話自体も楽しかったが、この過程をとても楽しめた。お題をもらわなければ、考えなかったことを考えたから。

偶然もらったお題が基礎を形作る

確か、映画監督の黒沢清さんの「映画はおそろしい」というエッセイ本のあとがきにこんな内容が書いてあって印象に残っている。(正確な引用ではないです)

「ここに収録されているエッセイは、出版社からお題をもらって、締切もあるなかで、なんとか捻り出して生まれたもの。でも読み返してみると、そうやって書いたものが今自分が持っている考えの基礎を形作っていることに驚いた」

ぼくは長い間編集者をしていたくせに、このことがよくわかっていなかったような気がする。作家といえば、自分の頭の中にすでにある考えを原稿に書き写すようなイメージ。

たとえば専門家が一般向けの解説書を書く場合、そういう場合もあると思う。でも多くの例で書きながら考えたり、書くことと考えることは同時進行で走っている。ぼくは完全にそのタイプ。

まず書くことで、自分が考えるべきことがわかる。論理がつながらなければ、そこで自分が何をさらに勉強するべきなのかもわかったりする。そして書いた後に、こういう考えになるんだ、と自分で驚いていく。

「自由に書いてください!」はいいこと?

こうして書く立場を経験できたので、ぼくは今編集者としての仕事を全然していないにも関わらず、編集者としても成長できていると思う。

ぼくは本のように長く付き合わなければいけないテーマは、自分で設定したいタイプ。だけど、ハッとするようないいテーマを与えられたら嬉しいだろうなと思うことはある。

本の刊行点数が増えているので、編集者は忙しくなっている。忙しいと適切な「お題をあげること」が難しい。相当数の編集者が、著者に対して、売れた前作と同じこと、売れたあの本と同じこと、いかにもその著者というカテゴリーのもの、人気のある著者なら何でもいいから自由に、というオーダーをしてしまっているように思う。

井上雄彦さんは『SLAM DUNK』の大ヒットの後、当然多くの漫画誌で争奪戦になったという。多くの編集者が何でもいいからウチで描いてくださいと言った。確かに何を描いたって売れたかもしれない。

才能ある人を目にすると、確かに「テーマは何でもいいからあなたの創造力を自由に発揮してください」と言いたくなる。才能がある人の考えているようなことは自分にはわからないし、自由にできる方が、足かせがない方がいいんですよね? とただそういう環境を用意したくなる。

だが井上さんを射止めたのは吉川英治の『宮本武蔵』を持ってきて、これを描きましょうと言ったモーニングの編集者だった。そうして生まれたのが『バガボンド』。

次に編集の仕事をするなら、こういう仕事のやり方がしたいと思う。時間をかけてその人の著作を丹念に読み込み、あなたには次これが書けるはずだと言うこと。あなたはこういうテーマに興味を持つはずだと伝えること。

それはもしかしたら、その著者も気づいていなかったようなお題かもしれない、でもそれが与えられると確かにそうだと思えるような意欲が湧いてくるお題。もしくは、そうなんですよ次それが書きたいと思ってたんですよ、なんでわかったんですか?と言うようなお題かもしれない。

「お題をもらうこと」の相互作用

書くことは一人の作業に思われがちだけれど、こんな風に他者性を含んだ共同作業なのだろう。そしてお題をもらうということも、他者性や偶然性が強いもののように感じるけれども、そのお題なら何かアクションを起こせそうだと思えるのは、そのお題と反応するものがすでに自分に備わっているからだと思う。

人は毎日考える95%の内容が、昨日と同じことだそうだ。お題をもらうことは、自分の考えがぐるぐる巡っているときに、風穴をあけてくれる。そしてそのお題に反応できたということは、たとえ毎日同じでもその95%があったからこそ。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。