Less is future

紙という制約と誓約
佐々木典士

本の内容に誤字や脱字、間違いがあっても、増刷するまでは直せない。

初版のまま売れなかったら、それはそのまま残るということ。(「ぼくモノ」の初版は誤字だらけでした、すみません)

紙に印刷するものは、簡単に直せないという「制約」があるので、だからこそなるべく正しいものを書こうという「誓約」が生まれる。ネットだけに載せる情報を書く時とは自分でも臨み方が違うと感じる。

 

当たり前のことだが、本だから正しくて、ネットだから間違っているということではない。本にも、疑似科学やオカルトや、そうでなくても真面目な学者が真面目に研究したものにだって、間違いはいっぱいある。

 

間違う可能性を恐れているところに新しいものは生まれないのだから、自分も間違いを恐れずに行こうと思うんだけど。

 

それでも何かあれば、すぐ削除したり訂正できるものと考えていると、適当な情報を載せたり、人を傷つけたりすることのハードルが下がるのは事実だろう。

 

本は炎上しない、と言われる。それは批判するために、有料でしかもある程度の長さがある本を読む、という面倒な行為がそもそも必要になってくるからだ。炎上に必要な人数が本を読んでくれるのであれば、出版業界はもっと潤っているだろう。

 

twitterが炎上しやすいのは、140字だけ読めば「判断する材料を全部集めた」「判断する権利が自分に備わった」と思えるからだ。日本の匿名指向も影響しているのだろう。(日本のtwitterは海外と比べて匿名のアカウントが多い

 

何をしても炎上してしまうので、それにうんざりして有料のメルマガやプライベートサロンでだけ本当の思いを伝える人もいる。

 

ネットがあり、デジタルだからこそ作れるコンテンツもある。ぼくは誰にも読まれなくてもアウトプットすることはいいことだと思っているので、それはネットによる恩恵だ。本当に、どんな技術にも一長一短がある。

 

書く方の「直せないのだから、間違ったものは書くまい」という気概。そしてそれをまっとうに批判するのであれば、それを「読み込まなければならない」という姿勢。制約と誓約が、お互い高めあって今まで本の文化を育んできたんだろうなと思う。

 

たとえば、このブログに書くようなときも「直さない」という誓約をつけて書いてみるのもいいかもしれない。