占いはしょうもない? 
佐々木典士

占いにはまるで興味がなく「バーナム効果」以上のものが何かあるのか疑問だった。

 

バーナム効果というのはたとえば、

「あなたは他人から見るといつも気丈に振る舞っているように見えますが、実は内面で不安を抱えていることもあります」

「あなたは社交的で愛想が良いように見えますが、内向的で遠慮がちなときもあります」

などと誰にでも言える性格の記述を、自分だけの本質を言い当てられていると思い込んでしまうこと。このバーナム効果を気付かれないように、いかにその人だけにカスタムされたように表現するかが、占いの技術なのではないかと思っていた。

 

「運」という言葉も全然好きではなく、「ぼくモノ」を書くにあたっては「片付けしたら運気がよくなる」という主張に対して、もうちょっとちゃんと説明しませんかという思いもあった。

 

 

しかし、非合理的だと切り捨てるのは簡単でそこでおしまいだけれども、もうちょっと他に考えられることもあるのではないのだろうか? そう思って、占いの特集をしていた「AERA」を手にとってみた。

 

AERA (アエラ) 2017年 10/2 号 [雑誌]

 

 

占いは日本版のカウンセリング

 

そこでわかったのはまず、日本では占いというのはひとつのカウンセリングとして機能していることだ。

 

(精神科医 春日武彦さん)

「カウンセリングが浸透している欧米と違い、占い師は心療内科の敷居が高い日本では身近な選択肢」

 

(しいたけさん)

「米国ではカウンセリングを受けて、家族や友達などに話せないことを話せますが、日本の場合「ちょっと病んでいる」という話しになる。しかし、占いなら違うかもしれない。占いが、否定したりジャッジしたり、支持をしない、カウンセリングのような位置づけにならないかとずっと思い続けているんです。占いはサプリメントだと思っています」

 

(臨床心理士 東畑開人さん)

「人が占いに行くのは、迷い、方向性を見失ったとき。すべてがバラバラで混乱しているとき、占いがつなぐ糸を考え、物語化してくれれば安心できる。ぼくらの仕事も似ていて、相手の話を聞いて、筋を見出します」

 

 

家族や友達にも言いづらい内容でも、占い師ならば話せることもありそうだ。人に話すだけでも楽になることはある。

 

当たるか当たらないかは問題ではない

 

そして占いは、ひとつの「第三者」の意見として使えるということであり、決して「当たるか当たらないか」が問題ではないということ。

 

(茂木健一郎さん)

「占いを自分自身や他者に対する思い込みとか偏見を解き放つツールとして使うというのは、ぼくはある気がするんですよ。占いが固定観念から解放してくれるきっかけになることもある」

 

(SBIホールディングス 北尾吉孝さん)

「大事なことは、当たるか当たらないかではなく、一つのデータとして念頭に置いておきましょう」ということなのです。

 

(鏡リュウジさん)

「良心的な占い師は、予言はしないですね(笑)」

 

昔は科学だった占い

 

非科学的なものかもしれない占いというのは昔は科学だと思われていた。もしかすると、今の科学も未来の占いのような立場にならないとも限らない。

 

(鏡リュウジさん)

「近代科学と占いは、わりと最近まで一緒でした。それは16世紀から17世紀までで、コペルニクスや、ガリレオ、ケプラーは占星術師でもあるんです」

 

(茂木健一郎さん)

「複雑性の科学が注目を浴びたことがありました。しかし、現実の前では複雑さを扱えないということが明らかになってきた。例えば生物学でいうと、がんの征圧などもなかなかできない。がん細胞って、思ったよりやっかいなものだった。生物や社会の複雑性に対し、科学は意外と無力だということが、なんとなくわかってきました。AIもいろいろな研究者と話していると、そろそろ限界が見えてきたというコンセンサスがあります」

 

占いの役割は限定的

 

そして良心的なほとんどの人は、占いの役割を限定的なものとして見ているということ。

 

(鏡リュウジさん)

「私は、まずはエンターテインメントとして占いを楽しんでほしいと思います。そして第2段階として、今持っている常識などを相対化するもう一つの世界観として、占いのロジックに触れてほしいです」

 

(ライター 石井ゆかりさん)

「幼い子どもが、クマのぬいぐるみや毛布をぎゅっと抱きしめて勇気を出すように、なにか心に「ぎゅっと」できる小さなものがあって、それで今日を生きていくことができるなら、それで「いい」としか言えないんじゃないかと、私は思っています」

 

(ゲッターズ飯田さん)

「しょせんは、人間、しょせんは占いです。勝ち続ける人生はない。ダメな時期はうまく避けて譲る。その目安になれば、十分です」

 

おそらく占いに普段から接している人達も、本気で信じているというよりもエンターテイメントとして楽しんでいる人が多いのだろう。確かに映画なんかでも設定がむちゃくちゃだろうが、辻褄があわなかろうが、映画の魅力は別にあって、エンターテイメントはそれでいいとも思う。

 

非合理から生まれる合理性

 

占いと同じように合理性があると考えられるもの、科学的だと思われているものもその役割を限定的なものとして見る必要があるのではないか? そして人間は非合理な存在だから、非合理なものから合理性を生み出すことだってできる。

 

(茂木健一郎さん)

「僕は占いを、まず行動のきっかけとして考えています。それは偶然をきっかけにしたセレンディピティーを呼び起こすものでもあります。Aというものを目指していたらBに出会う。それが偶然性を意味するセレンディピティです。Aを目指さないとそもそもBには出会わない。だからとにかく何か仮説を持つ。生きる上での仮説を作るために、占いを活用することはできると思います」

「狭い科学主義では、行動のきっかけは作れないんです」

 

(『非常階段』JOJO広重さん)

「相談にいらして、ここに座っている間、相談者の方の現実は何も変わっていません。でも気持ちや価値観が変わってくれればいいんです。そうすれば占い師として成功だと思います」

 

 

原因は非科学的なものだとしてもその結果、行動する気になったり、気持ちが変わるということは化学的な変化が脳に起こっているということ。

 

役割を限定的に考えていない占いは、もちろん疑ったほうがいい(そして科学も)

しかし「非合理だ、非科学的だ」と切り捨てるとそこで考えられることは終わってしまう。

 

ぼくは占いに行くことは今後もないかもしれないけれど、「女子って占い好きだよね~」という冷ややかさを含んだ気持ちは、変わることになりそうだ。

 

AERA 2017年 10/2 号

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。