エンドロールとお葬式
佐々木典士

映画のエンドロールは、映画好きを自認していたときはスタッフの名前まで覚えようと必死で見ていたような気がする。今はもうそれもおさまって、なんとなく映画の物語を反芻する時間に使っている。それほど思い入れがなかったり、あまりに長くなりそうなときは途中で退席することもある。

エンドロールはいらないといえばいらない(最近見直した『ダーティハリー』だと30秒ぐらいしかない。昔の映画はほんとうにあっさり終わる)けれども、今は映画の「余韻」だと思うようになった。

 

先日、祖母のお葬式に出た。ぼく個人は自分に何かあってもお葬式はしてほしくない。お墓ではなく海か山に散骨してもらって自然に還りたいと思っている。

 

しかしお葬式にも意味はある。お葬式で、初めて会うような祖母のきょうだいに会う。いとこや叔父叔母とも久々に近況を話す。お葬式は人が集まる機会だ。

 

祖母は93歳の大往生だった。悲しみもあるが、そうなると思い出話に花が咲く。母の子ども時代の話なんて、こんなこともなければなかなか聞く機会がない。

 

祖母の歴史も改めて語られる。祖母は若い頃、従軍看護婦として満州で働いていた。満州なんてどうも自分との関係が想像しづらいが、そこから今の自分まで連綿と続いているものが確かにあるのだ。

 

祖母は、お琴やお茶、お花などをたしなんでいた。そして足を悪くしてからも旅行に出かけていたという。今の自分の多趣味ぶりと、旅行好きにも何か繋がっているという気がする。

 

お葬式に出て、手を合わせたり、念仏を聞く。それはエンドロールのように、故人の物語を反芻する余韻でもあるのだろう。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。