焚き火、瞑想、ランニング
佐々木典士

11月から3月の春分の日頃までは寒いと思っているので、

寒い時期のバランスはよくなくて、少々長過ぎるといつも思う。

 

 

だけど寒い時期ならではの楽しみもある。

そのひとつが焚き火だ。

 

 

直火で何か焼いて食べるのが本当に美味しいというのもあるけれど、

いちばんの楽しみはただ火の移り変わりを眺めていくこと。

 

 

いつも働きすぎ、考え過ぎの意識は火を見ると静まってくる。

 

「空白」を獲得する

 

村上春樹はランニングについて「空白を獲得するために走っている」と書いていた。

ぼくが瞑想するのも空白を獲得をしようとしているのだと思う。

 

 

空白と言っても、瞑想をしたからといって完全な無になることはできない、と「ヨガとシンプルライフ」のみうさんと話をした。

村上春樹はこのことについて「人間の精神は真空を抱え込めるほど強くないし、また一貫してもいない」と表現している。

焚き火を見ても、完全な空白にはならないが、いつもより「余白」が生まれる。頭の中がデフラグされる。

 

 

黒沢清の『CURE』では、ライターの火を見た人物は虚ろになってしまう。

火を見ると、普段の自分は少し後ずさりする。

 

一人で内省することもできるし、火を囲むとうっかり秘密を打ち明けてしまって親密さが増したりもする。

 

 

わざわざ走りにでかけたり、瞑想したりしなかった古代人が自然にしていた行為が焚き火なのではないだろうか?

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。