自由と解放、自由と必然
佐々木典士

ぼくの地元、香川で國分功一郎さんが「自由」について論じる講演会に参加してきた。とても濃くかつわかりやすい講義だった。その一端だが、少しまとめておこうと思う。

ぼくたちは習慣で、できている。」は、國分さんの「暇と退屈の倫理学」、「中動態の世界」から大きな影響を受けている。

 

ぼく習はこんな状況からスタートする。ぼくは会社を辞め、出社時間にも締め切りにも追われなくなり毎日好きなことができるようになった。しかし、それはそれで苦しいものであり、毎日が日曜日のような状態は嬉しくもなんともなかった。

 

ハンナ・アレントは、「解放 liberation」と「自由 freedom」を区別したそうだが、ぼくもまさしくそのような状態であったと思う。

解放されたからといって自由になれるわけではない(解放は自由にとって必要条件であるが十分条件ではない)。

解放とは「解き放たれる」ということ。ぼくも毎日の出社の義務や、やらなければいけない雑務からは確かに解放された。しかし、それだけでは自由になることはできなかったのだ。

 

 

國分さん自身もまた、「暇」「退屈」を分けて考えている。

簡単に言えば暇というのは、忙殺されておらず客観的に時間があること。

退屈というのは主観的に楽しめているかどうか。

 

 

暇もあるし、退屈もしていない理想的な状態もあるし、

暇はあるが、退屈している状態もある(ぼくが会社をやめた後に陥った状態)

 

さらに、

暇はないが、退屈していない状態(仕事が忙しいが充実している)

暇はないし、退屈もしている状態もあって、このあたりは「暇と退屈の倫理学」で詳しく論じられている。

ハンナ・アレントは自由の問題を政治の領域、政治の存在理由として考えたそうだがこのあたりもややこしくなるので省く。

 

 

そしてスピノザによる「自由」。

彼らは自分の行為は意識しても、行為へと決定する原因のことは意識していない。

 

という言葉は、ぼく習でも引いた。これを成し遂げたい、やめたい思った習慣が達成できないとき、ついつい「意志が弱い」という話になってしまうが、そうではないのではないか。何かしらの報酬がなければ人はやらないし、何かをしようにも簡単なハードルがあるだけで「やる気」なんて失われてしまう。

 

曖昧な「意志」「やる気」には頼らないこと。習慣をはじめるためのハードルを取り除き、環境を整えること。義務ではなく本能で求めるような報酬になるまでやらなければ習慣化はなされないことなどがぼくが伝えたいことだった。

 

スピノザは自由意志を否定した哲学者だと言われる。すべてには複雑に絡み合った因果関係があるのだが、人にはそのすべてをさかのぼって捕捉できるほどの能力がないだけだ。

 

ではスピノザは人には自由がないと考えたのかというとそれも違う。「エチカ」の最終章は「人間の自由」についてと題されているからだ。

 

スピノザが考える自由であることは、因果関係を断ち切り、そこから逃れることではなく、「必然」のことである。必然と言うと自由がない選択肢のように思えるがそうではない。自由と対立するのは「強制」であり、必然とは対立しない。

 

自分を自分たらしめている本質=本性(ほんせい)に則った行動ができているとき、自らの必然に従って行動できるとき、人は自由であるとスピノザは考える。

 

仕事でも趣味でもなんでもそうだが、いろいろと試していると実にしっくり来るものに出会うことがある。やっていることと、自分の本質の芯がずれておらず、ぴったりくる。それをしているときは嘘をつかなくてもよく、生き生きと過ごすことができる。そういうものに出会うと、自分でもわかる。その時ようやく人は自由を得られる。

 

しかし、本質というともともと備わっていたものがあるように思えるがそれは違うとぼくは思う。若いときは特にそうだが自分の本質を見つけようとして「自分探し」したり、「何がしたいのかわからない」という状態に陥りがちだ。

 

ぼくが思うのはここでも習慣であり、続けることだ。本質がどこかにあるのではなく、続けるからそれが得意になり、他人からも喜ばれ、その人の本質になってくるのだと思う。何も得意でなければ、何がしたいのかわからなくなるのも当然だ。だからいろいろ試し、これだと思ったら続けてみること。

 

嫌なことから解放され、時間があって、楽しみに耽ること。

それだけでは人は「自由」は感じられないのだ。

 

 

今回の講演会は、参加者とのダイアローグや質問時間も充実していたし、講義後には、居酒屋での交流会もあった。居酒屋で國分さんに「アレントが言っている○○は……」とか直接質問できるのは贅沢な体験で目眩がした。

 

思えば大学の頃は、現代思想や哲学の本ばかり読んでいたのだが、ほとんど忘れてしまった。バイトの休憩中にも「存在と時間」とかがんばって読んでいたのだが、そのときはやはり背伸びをしていただけだったのだと思う。モノで言えば道具や機能ではなく、単にステータスとして持ちたい、というようなものだったのではないだろうか。

 

今ようやく、自分の関心に引きつけて、自分の本質とつながりのあるものとして哲学も読めるような気がしている。

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この記事を書いた人

作家/編集者。1979年生まれ。香川県出身。『BOMB!』、『STUDIO VOICE』、写真集&書籍編集者を経てフリーに。ミニマリスト本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は25カ国語に翻訳。習慣本『ぼくたちは習慣で、できている。』(ワニブックス刊)は12ヶ国語へ翻訳。