エンプティ・スペース  001
沼畑直樹 
Empty Space Naoki Numahata      

 

2008年ごろに雑誌で見た、ある老夫婦のシンプルな部屋。ベッドと机以外はしっかりと片付けられていて、狭い平屋のその空間は「静謐」という言葉がよく似合った。

以来、ふとしたときにその写真を見たくなり、目にするたびに気分がすっとした。

そして雑誌を閉じると、目の前には乱雑にモノが積まれた部屋の風景。

いつかあの写真のような部屋にしたいと願いつつ、数年後に行った掃除によって、それは達成された。

エンプティ・スペース。

日本語にして、空間。

 

すっきりと片付いた部屋で、その空間を楽しむようになった。モノだけでなく、習慣や考え方、生き方も含めて、このシンプルな生き方を表現できる言葉はないかと本屋を歩き、結局アメリカのサイトでMinimalismという言葉に出会う。

今思えば、断捨離をアメリカ風に解釈しただけだったのかもしれないが、そこに少し野性味が加わったような雰囲気が当時はあった。

個人的な印象としては、その野性味が抜けきることはなく、言葉のイメージの中には、森の中や丘の上がある。

自分の好きなモノたちから離れ、一人森の中でキャンプもしくは放浪するという雰囲気がアメリカのミニマリストが放った野性味。

古くはホーボーと呼ばれ、後にビート・ジェネレーション、ヒッピーと繋がったアメリカ独自の野性味。

賑やかさというノイズを遮断し、ミニマイズし、静けさを愛する。

空という屋根と木々もしくは空気に囲まれた空間に佇む。

それがアメリカのミニマリズムのひとつの到達点で、その後は「部屋が片付いていてきれい」「究極のインテリア」という部分で語られることが多くなった。少しリッチなイメージが付きまとい、野性味は薄れていった。

 

当時はアメリカにおけるミニマリストの実情は知らず、ただミニマリズムという言葉の響きだけを得て、2008年に出会ったあの夫妻の部屋の写真を重ね、個人的な解釈を「ミニマリストという生き方」にただ加えていった。

数年が経ち、「あの夫妻の部屋の写真に惹かれたのはなぜなのか」という問いは続き、探した答えの先には結局、日本人として、茅屋、茶室という言葉に行き着く。

そこは、あの野性味と部屋が、同じイメージとしてどうして繋がるのかという答えでもあった。

 

茅屋は、部屋の中のようでありながら外。

 

すぐに片付けられるテントのような部屋。屋根と壁に囲まれただけの空間。エンプティ・スペース。

部屋とは、自分の落ち着くべき、便利であるべき空間なのに、すぐに壊されてしまうような仮の部屋。

それが茅屋であり茶室で、ミニマリズムの部屋が実現する空間だった。

外という地球の空間に佇む歓びを、部屋にいながらにして感じる空間。

 

だから、言葉は繋がっていく。

森、海、空、間、

あの野性味も、部屋の中も繋がっている。

エンプティ・スペースは、外であり内であるということ。

 

空間に佇み、  路に佇む。

部屋のオレンジのライトと、   焚き火のあかり。

射し込む夕陽と、  伊豆の夕景。

電気を消した部屋の静けさと、   テントの夜。

 

想像力を使わざるをえない、エンプティ・スペースの日々を書き綴る。

 

 

2008年、いらざるもののない家

 

少しずつ書きためたものを『エンプティ・スペース』という題のもとに、このサイトで公開していく。

その前に、2008年のその雑誌をもう一度めくってみたい。

このエンプティ・スペースの文章を書きながら、どうしてもまた読みたくなって、捨ててしまったカーサ・ブルータス2月号を再度購入した。

092ページ、タイトルは、『いらざるもののない家』。

 

平屋の縁側に座る上小沢夫妻が右ページ、左ページには趣味室。椅子、テーブル、ピアノ。

飾り立てるものは何もなく、床にも何も置かれていない。

記事によると、夫妻はその記事から48年前、建築家広瀬鎌二の「無駄も媚びもない合理的な空間」に共感して、予算を最小限にして設計を依頼した。

当初は雨漏りなどがあったが、住み続けることを決意した二人は改修を続け、「無駄と思われる壁や棚、家具などを容赦なく取り払って空間を整理」した。すると、家の骨格が剥き出しになってきて、より美しくなったという。

モットーは「いらざるものは、入れない」で、「モノは最小限にして、上質でなければならず」「適度な緊張感と知的な向上心をもって生きる」だという。

 

裸の骨格の家、夫妻はそれを上質と言う。

 

これは、より美しく飾り、インテリアを美しくして、立派な家が上質であるという考えと、真反対にある。

そして、「空間」に美を感じるタオイズムと禅の思想に酷く近い。

タオイズムには、美の物質で飾ることで、ゲストの想像力を削いでしまってはいけないという考え方があるが、夫妻も以前に欲しかったモンドリアンの絵を断念したという。理由は、「空間を限定したくなかった。モノがないことで精神の自由を得るのです。豊かさとは、モノが豊潤にあふれていることではなく、心の満たされた状態のこと」だから。

この家の写真と出会って10年が経ち、ミニマリストのように生きることも、豪華な人生を生きることも、どちらでもいいと思っている。ただ、常に個人的な、自分はどうするかというだけの話だ。なので、競争に参加したくないものの、競争に参加し、豪華な人生を送る人も素晴らしい人生だと思う。「お金を稼ぐことに成功した人が成功者である」という考え方も良いし、ただ私は一切共鳴することなく、経歴や実績、所有しているもので、人を判断しない。

目の前のあなたは、ただの同じサピエンス。(パワハラ運動と無関係ではないと思う)

無駄と思われる自分の何かを容赦なく取り払うと、ただのサピエンスになる。

テーブルと椅子、美味しい毎日の食事とコーヒーを繰り返す、幸福のサピエンス。

 

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この記事を書いた人

『最小限主義。』、写真集『ジヴェリ』『パールロード』他(Rem York Maash Haas名義)、旅ガイド『スロウリィクロアチア』他

メール info@tablemagazines.com