ウェストコースト
1年前、西伊豆の宿に行った。ミニマリズムを知ったころに、夕陽の見える海岸を探して、行きたいと思いつつも数年が過ぎてしまっていた。
片付いた部屋を抜け出して、西日の路を往く。
2017年12月7日
西伊豆を走りたい。と思って数年が経った。
2014年のクロアチア・アドリア海の旅で、夕陽が海岸や街を照らす「西海岸」に惹かれたのがきっかけだ。
世界中のどの場所でも、西海岸は街が夕陽に照らされる。
ゆったりと流れる時間は、古代の人々にとっては近いものであって、都会の人にとっては怠惰なもの。
部屋を片付け、シンプルな状態になると、そのゆったりとした時間が家の中にあらわれる。
それが怠惰ではなくて、あくまで人間としてノーマルな状態だと信じたいので、本当は西海岸が日常であってほしいと思う。
観光地のゆったりした夕方ではなくて、いつもの夕方。
でも、吉祥寺という街は東京の武蔵野台地のど真ん中にあり、街を見下ろす丘はない。高いビルも少なく、自分の家のある4階建ての4階がまわりを見渡しても最上階。屋上にのぼれば富士山と夕景は望めるが、商店街である地上を歩いていると夕方を感じる瞬間は少ない(季節によっては、道の向こうに陽が沈む)。
夕陽に飢えてしまった私は、日本での西海岸はどこだろうかと地図に向き合っていた。
クロアチアの場合、南北に海岸線が伸びていて、車で海岸線沿いの道路を移動していても、ずっと西陽が沈まない。
東西に海岸線が伸びているところよりも、南北の西海岸を見てみたい。
探すと、能登半島や秋田、山形、瀬戸内海、熊本や長崎と、大陸ではない日本にはいくらでも西海岸がある。自分が今までそこに価値を見出さなかっただけだ。
東京から近い西海岸を探すと、吉祥寺からまっすぐ南下した鎌倉からさらに進んだ、三浦半島。
そして、伊豆半島にあった。
三浦半島は比較的近いので、東京に住んでいると週末に訪れることは多い。ただ、宿泊するほどの距離ではなく、夕暮れの前には出発して、渋滞に巻き込まれないように帰るのが常だ。
宿泊としては、やはり箱根や伊豆になる。
金曜日の晴れた朝に吉祥寺を出発し、家族を乗せて沼津経由で海岸線を南下。道はしっかり海岸線に沿っていて、淡島という小さな島を過ぎたあたりから海岸線は北を向く。
11月中旬の2時から3時ごろだと、陽はもう傾きかけていて、北を向いた海岸線からも少し黄色がかった陽が見える。
その先には大瀬崎があり、小さな半島の真ん中に神池という池がある。
妻が京都の伏見神社で「気に押される」という不思議な体験をしたあとだったので、パワースポット的な香りのする神池を眺めてみたが、私はまったく気を感じなかった。
池は森の中にあり、そこから細い道を抜けて、西側の海岸線に出てみる。
観光客もほとんどいない11月の金曜日。
私と妻と子どもと、妻の母の4人で、西日をいっぱいに受けた海岸線に立った。
陽は薄い雲に隠れていたが、求めていた景色そのもの。
それから、地図上での海岸線を走ったが、最初は海側が木に隠れていることが多く、「海岸線を走る」という感じでもなかった。
少しずつ、道は海岸線を走るようになる。
ときどき、眩しい。
西伊豆の小さな温泉街にある宿は、当然ながら夕景を見下ろす丘の上にあった。
選ぶ際の条件だからだ。
ロビーからは駿河湾と夕陽。
部屋の露天風呂から、西の海がきらきらと輝いているのが見えた。
その夜、9時ごろに修善寺に着く予定の姉を迎えに、車で一人東へ向かった。
そこから修善寺に抜けるためには、山を越えなくてはならない。
真っ暗な闇の山道を抜けるのは不安だったが、安心材料はひとつあった。
「ゆっくり走る」ことだ。
今回の西海岸のドライブでも、私は後ろの車に道をゆずり、前にも後ろにも車がない状態にして、ゆっくりとワインディングを走った。
安全運転よりも安全というほどの、のどかなスピードでウィンドウ越しの風景は流れていく。
まるで映画のワンシーンのような動きをする風景を時折眺めながら、急ぐことなく道を往く。
夜の山道であってもそれは同じだから、時折やってくる後ろの車を先にいかせて、ゆっくりと漆黒の山道を走った。
下手をすると、ゆっくりすぎて、山の「気」に襲われたかもしれない。
怖くなって、アクセルを踏み込んだかもしれない。
だけど、凍結の可能性もなくはない山の道を、飛ばすわけにはいかない。
どんなに恐ろしい山道でも、ゆったり往く。
正直、時折ざわっとしたが、私の「ゆったり」が、山の「気」に勝った。
翌日の朝、修善寺に行くために、また同じ山道を越えた。
「夕陽を浴びる西海岸を、ゆったりと走る」
それを目的とした旅は、その山の先の峠を越えたときに終わった。
あとは伊豆の真ん中を走り、熱海から東海岸をゆっくり走り抜けていくだけ。
海岸線を南下しつつ帰れば、もっと楽しめたのに…とも思ったが、修善寺の誘惑には勝てなかった。