エンプティ・スペース 004
遠くまで見える
沼畑直樹
Empty Space Naoki Numahata

2017年12月28日

朝、車でいつも通り妻を仕事場のスタジオまで送るため、井の頭通りから五日市街道に入った。

すると、道の向こうの空に、白い雲のようなものが見える。

「もしかして、あれは富士山なのでは…?」

今まで何度も通ったこの道で、富士山が見えたことはない。

でも、雲ひとつない空に、雲がなんだか違和感がある。


前の車が停車して、その白い影は見えなくなったが、私は方角から見てそれが富士山だと確信し、一人「富士山だ!」と叫んだ。

車が進むと、再びその影は姿をあらわしたが、次は枯れた街路樹に視界を阻まれ、見えなくなった。

     

どうしてこんなに、ふと見えた富士山に喜ぶのか。

私は10年以上、たぶん15年くらい、富士山に毎月のように通っている。

仕事先がそこにあるからで、何度も美しい富士山を近くで目にしている。

なのに、東京で富士山を見ると心が満たされ、達成感があるのだ。

だから、天気のいい日は娘を連れて必ず屋上に行き、富士山チェックをする。

自分の家から見える富士山が一番だが、江ノ島や葉山からでもいい。とにかく歓びに満たされる。

      

今日富士山が見えたのは、強い北風のせいで富士山まで空気が澄んでいたからだ。

乾燥も関係しているらしい。水蒸気が少ないので太陽光の乱反射がなく、暑さで空気が上昇しないため、ほこりなどは地上近くに留まる。

そのため、「秋の空は高い」。

遠くまで、はっきり見える。

妻を送ったあと、富士山の見えるポイントに娘と移動したら、雪に覆われた大沢崩れの形がはっきりとわかるほどだった。

まわりの山の雪の積もり具合もきれいに見える。

すごく遠くのものが、はっきり見える。

どうやら、自分の心にとっては、そこが嬉しいポイントらしい。

遠くのものが見えることが嬉しいのだ。

       

「遠くのものが見えることが嬉しい」には、思い当たることがたくさんある。

たとえば、久米島で素潜りをしていたとき、11月になると透明度が格段に上がる。

そのせいで、水面から40メートル下のサンゴの床が見えるときがある。

空に飛んでいるような感覚を味わえるのは、そのとき、その季節だけ。

たいてい、ウミガメが優雅に底のほうを泳いでいて、大きな水族館のようだし、底がはっきり見えるから怖くない。

普段は40メートル下なんて見えなので、不気味なときもある。

星もそうかもしれない。

この目で見える何よりも、遠くにあるもの。

    

    

午後、保育園まで娘を迎えに行った。

迎える前から、娘と二人で遠くに出かけようかどうか迷っていた。

遠くに行くのは楽しいし、ワクワク感があるが、同時に、遠くまでの運転が面倒な気分でもあった。

富士山の見えるポイントで車を止めて、大沢崩れを眺めながら、遠くを見ることについて考えた。

「行かずに、ここから眺める」という歓びもあるのではないか。

年末の30日には餅つきで富士山に行くけれど、近くで見る富士山と遠くから見える富士山の価値はやはり違うのではないか。

どちらかがいいというわけではなく、違う価値を持つのだと。

     

車に戻ると、娘が最近覚えた歌を歌い出した。楽しそうにしているのを見て、目的地なく、ただ二人で過ごせばいいのだと思った。

そばの名所である近所の深大寺へ行き、おだんごを食べ、参道を散歩して家に戻ったら、もう4時。

冬至だから、4時30分には日没になる。

そのあとは日が沈むまで、何度も屋上に夕景の富士山を見に行った。

     

     

「遠くまで見える」のは、富士山だけじゃない。

妻が若いころに見たというモンゴルの草原と満天の星。

もしくは、山の頂上から眺める風景。

あとは、グランドキャニオン的風景。

与那国島から目を凝らした台湾の島影(見えなかった)。

雲。秋の雲は空高い。

逆に、飛行機から眺める地上。

そして、海。

私は20代のとき、サーフボードの上で波待ちをして、視力が回復した。

ずっと向こうの水平線のほうを眺めていたからだと思う。

     

海にも空にも、「遠く」がある。

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この記事を書いた人

『最小限主義。』、写真集『ジヴェリ』『パールロード』他(Rem York Maash Haas名義)、旅ガイド『スロウリィクロアチア』他

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