Less is future

エンプティ・スペース 005
世界の果て
沼畑直樹
Empty Space Naoki Numahata

2018年04月15日

灯台の見える崖の上にポツンと佇む小さい家。

世間と隔離されたその家で、薪を割り、火をおこし、世捨て人のように生きる。

時折遠くを見つめる目がかっこよくて、あごひげは伸ばし放題。

できれば、カスタムされたバイクとピックアップトラックが横付けされているといい。

そんな暮らしに憧れて、若い頃に最適な場所を求めて移動を繰り返したが、最終的に琉球列島の島に辿りつき、海辺の崖の上に住み、その芝生の上で珈琲を飲み、海を眺めながら「鯨はいないか」と気にして詩を書く毎日を送った。

人がたくさんいて交流している賑やかな中心となる街から、遠くの果てにいることに、満足感を得ていた。

だが、あまりに若いので、結局「もっといろんなことがしたい」という欲望には勝てず、結局は日本の中心にある都市に長いこといる。

だから時折、「果て」に憧れる。

今は年を重ねた分、もっと渋く崖の上に佇めるのに。

もし今、それが可能なら、どこが最適な「果て」だろう?

たとえば、映画『バベットの晩餐会』に出てくる寒村は、デンマークのユトランドにあるプロテスタントの村がモデル。

質素倹約を旨に、小さな漁村で生きる村民がいて、ある日、パリの有名シェフが身分を隠して逃げ込んでくるというストーリー。

ヨーロッパの田舎で、プロテスタント系の村はまさにミニマリズムの基礎ともいえる暮らしだ。

だからゲルマン系のノルウェー、スウェーデン、デンマークといった少し寂しげな海沿いの村は隔絶感があっていい。

ひろげると、カナダ、アラスカだっていい。

遠い町。辺境。とおくて、行きづらい。

でも、よく考えてみると、この日本がそもそも、ヨーロッパやアメリカの人々からしたら、東の果ての果てにある、遠く、中心から遠く離れた、中心世界から隔離された場所だ。

彼らがこの日本に降り立ったとき、「私は自分の住んでいる世界から一番遠くの国に来た」と感じるかもしれない。

東京がどんなに都会になっても、辺境にある大きな都会であることは変わりないのだ。

日本人の感覚としては、たとえばトルコとか、インドの先とか、アフリカのどこかとか、南アメリカ大陸のどこかのほうが辺境感がある。

でもトルコの人が日本に来たときのほうが、確実に辺境感があるだろう。自分たちの文化とはまったく違う文化が、世界の果てで花開いている。

そして、そのまま海岸の寒村に行けば、本当に寂しい思いをするかもしれないし、それに猛烈に憧れを感じるかもしれない。

果て。

結局私もあなたもいつも、世界から離れた果ての果てで、毎日生きている。

そう思うと、それはそれでいいのかもしれない。

世界の果てにて。