海外版の本がたくさん出ているので、メールでのやり取りや、読者からの質問も英語で受けることが多くなってきた。
ぼくの英語力はぜんぜん高くない。しかしわからない単語が出てきてもネットで調べればわかるし、書くときも、これは英語でなんて表現するの? というのは検索すればいくらでも出てくる。
そうして気づいたのが、英語のやり取りをしているときに相手の「意図がわからない」ということがほとんどないということだった。
日本語で質問を受けるようなときは残念ながら頻繁に起こる。「何を聞きたいのだろうか?」「何を求めているのだろうか?」と考え込んでしまうような内容がたくさん送られてくる。
ネイティブ同士でないほうが伝わる?
「ロン毛と坊主とニューヨーク」のロン毛さんと話していたとき、日本人以外の恋人と付き合う方が、実はわかりやすいと言っていたのを思い出す。
お互い日本語ネイティブの恋人同士のほうが、深く理解できそうな気がする。しかし日本人同士だと「言った内容が遠回しすぎてほとんど伝わっていなかった」ということが起こったり、「言わなくてもわかってよ」と阿吽の呼吸を求めたりしてしまう。
お互いに英語ネイティブでなければ、まずもって「100%はわからない」という前提からスタートする。自分の意図をはっきり言葉にしなければ伝わらない。ネイティブでなければ、伝える言葉は婉曲表現ではなく、必然的にシンプルになる。結果として、お互い何を意図しているのか、求めているのかが、わかりやすくなってくる。
つまり、「わかる」「わからない」問題というのはその言語の習熟度とは別のところにもあるということだ。
「空気」という主語
日本語の特有の問題もある。たとえば主語は頻繁に省かれる。日本語で主語を全部書くと、翻訳調(例 だから、俺は奴にこう言ってやったのさ)になったりするし、まだるっこしく感じる。
以前ある記事で読んだのだが、通訳者が「忖度」を英語に訳すときに、主語が誰なのかわからず困ったことがあるそうだ。おそらく主語は「空気」としか言えないようなものになる。
自分の意図を伝えたかったら、主語を大きくしないこと。「みんなやってるよ」「誰でもそう思うよ」ではなく「私はこうしたい」と言うほうが伝わる。
『インベスターZ』を読んでいたら、日本と欧米の採用の面接形式が違うと書かれていた。
日本では最終面接があれば、重鎮がずらっと並んだ形になったりする。
欧米では一人の人が面接をし、採用を決める。複数人で採用を決めるということは、各人の意思を尊重することでもあるし、主語は「空気」になり、責任の所在があいまいになってしまうことでもある。
文化と言語構造は相互関係?
言語として主語が省ける。だから実際の行動の主体もよくわからなくもできる。
おそらく、日本の文化と日本語の構造は相互関係にあると思う。
語順の問題もあると思う。日本語では語順はかなり自由だが、英語なら厳密に決まっている。まず、最初に主語と動詞が来る。「わたしはこうしたい」というのが最初に来る言語は、やはり意図が明確にしやすいと思う。自己主張の強い文化と英語の構造もまた、相互関係にあるのではないか?
日本語を学んでいる人と話をすると、空気を察知しなければ意味がわからない言葉はやはり難しいということだった。たとえばOKなのか not OKなのかわからない大丈夫という言葉。
「大丈夫です」(OK、もちろん問題ないよ)
「……大丈夫です」(嫌だけど、仕方ないですね)
「だいじょう……ぶ」(大丈夫じゃないけど、気にしないでね。でも、そんなけなげな私をたまには気にかけてね)
京都の歴史ある地域では、たとえば工事の音が夜までうるさいと思ったら、
「昨日は、ずいぶんがんばってはったなぁ」
と相手をねぎらう言葉が、忠告になるらしい……。
言葉の意味だけではわからず、相手をしっかり観察しなければ、意図するところがわからない。
わかりやすく伝えるために
日本語より英語のほうが優れている言語だ、というつもりは毛頭ない。
いつでも明快で、論理的なものがいいわけでもない。
たとえば、ぼくは文学に明快さや論理性をぜんぜん求めていないし、どちらかと言えばそれをぶち壊してほしいと思っている。阿吽の呼吸には、わかりづらさもあるが情緒もある。
しかし、会ったこともなく文字だけでコミュニケーションしなければならないときは、もっとわかりやすさを重視してもいいのではないだろうか。日本語でもわかりやすく伝えることはいくらでもできる。
・「お互いに100%はわからない」という前提条件からスタートする。
・自分の状況をきちんと説明し、自分の意図を伝える。
・主語を大きくせず、明確にする。
・婉曲的になりすぎず、シンプルに伝える。
ここまで書いてみて思ったが、会ったこともあって親密な間柄にもこれは必要なことだと思う。